●NEWS●

アメリカを代表するギター製作家Ervin Somogyi氏が、8年間以上の年月をかけてギター製作についてまとめた本を2009年7月に刊行することになりました。『The Responsive Guitar』『Making the Responsive Guitar』の2冊で、Somogyi氏のHPより購入が可能です。従来のハウツー本とは異なり、具体的な作業についての言及のみならず、ギターを製作する上で理解しておくべき原理原則などを平易な表現でまとめた本書は、他に類を見ないものとなっています。著者のコメントにも「次世代の製作家たちにとってバイブルのようなものとなるだろう」とあるように、ギター製作に関わる人にはぜひとも読んでもらいたい本です。なお本書は全編英語のみですのでご注意ください。
またSomogyi氏自身のナレーションによるプロモーションビデオがYouTubeに公開されていますのであわせてご覧ください。

Ken Oya Acoustic Guitarsの音は以下のCDでお聴きいただくことができます。

伊藤賢一さん
最新作『かざぐるま』ではModel-Jを、3rdアルバム『海流』ではModel-FとModel-Jにて演奏されております。

竹内いちろさん
1stアルバム『竹内いちろ』で全曲Model-F(12Fjoint仕様)を使っていただいております。

押尾コータローさん
2008/1/1リリースの『Nature Spirit』に収録されている「Christmas Rose」でModel-Jを弾いていただいています。

November 20, 2008

●Edward Gerhard: Counting the Ways

EdGerhard_Counting.jpg

Edward Gerhard (g, lap steel, b, per)
Martin Simpson (g)
Bob Brozman (lap steel)
Arlo Guthrie (g)
Ray Brunelle (ds)

『Night Birds』で触れたが、エドに初めて会ったのが1998年春の初来日のときだった。アーヴィンが自分のギターの音のプレゼンテーションにエドのアルバムを持っていたくらいだったので、てっきりSomogyiギターを使っていると思い、とても楽しみに南青山MANDALA似足を運んだ。中川イサトさんが中心となって、エド・ガーハード、プレストン・リードを招き、小松原俊さんと4人のジョイントという実に豪華なライブだった。

それぞれが個性的で味のある演奏を繰り広げ、心待ちにしていたエドのステージが始まった。彼が手にしていたのはアーヴィンの楽器ではない!! 「えぇっ」と驚きながら見るとBreedloveのあまり見たことのないモデルだ。
MCでこの楽器が来日直前に完成して渡され、今回が初のステージお目見えとのこと。演奏自体はとてもすばらしいもので楽器の違いなどあまり気にならなくなり、気がつけばすっかり音楽を楽しんでいる自分がいた。
ライブのあとエドに話をし、近々バークリーにギター製作を勉強しに行くというと、「Ervinのところかい? 彼は本当にいい製作家だよ。いい友達だし」と笑って答えてくれた。

このアルバムがリリースされたのが1996年。実はこのときすでにエンドースメントを受けてBreedloveを使っていたのだった。BreedloveはもともとTaylor社にいたLarry BreedloveがクラフトマンのSteve Hendersonと1990年に立ち上げた比較的新しいギターメーカー。外見的には特徴的なブリッジのデザインが印象的だが、立ち上げ直後に合流したDon Kendallが開発したJLDブリッジ・システムを採用していたのが実に斬新的だった。

アメリカに渡ってアーヴィンの元でギター製作を手伝いながら勉強をする日々を送っていた頃、エドと再会する機会があった。98年の夏、ベイエリアの北部にあるSan Rafaelという街で開催されたAcoustic Guitar Festivalの会場でのことだった。「僕のことを覚えている?」と聞くと、エドは笑って「もちろん!」と答えた。ライブで使うメインギターを変えた後も、エドとアーヴィンの親交は変わることなく続いていたのである。向こうのギター展示会では、自分のギターのプレゼンテーションの時間が設けられていることが多く、主催者側が手配したギタリストか、それぞれが各自で依頼したギタリストに別会場(このときは大学が会場になっていたので展示会場とは別の教室だった)で30分ほど演奏をお客さんに聴いてもらうことが出来る。

アーヴィンはマーティン・シンプソンに演奏を依頼していたのだが、当日、マーティンの友人がアクシデントに巻き込まれて、時間まで到着できないというハプニングが発生してしまった。急遽、旧友のエドに演奏を依頼したところ快諾してくれて無事にプレゼンテーションを終えることが出来た。期せずして、エドがアーヴィンの楽器を演奏(それもピックアップを搭載していない楽器だったのでマイク収音というおまけつきだった)を聴くことが出来たが、ギターも演奏自体もすばらしく、聞きながら思わず鳥肌が立つほどだった。

さて、少しこのアルバムについて触れてみよう。副題にLove Songsとあるように、バラードものを中心にイギリスの古い伝統歌、ビートルズやミシシッピ・ジョン・ハートの楽曲、アフリカ、メキシコ、フィジーのラブソングをギター曲にアレンジしている。比較的ゆったりした曲ばかりなのだが、メロディラインの多彩さもあいまって単調な感じはまったくなく一気に聴いてしまう。ライブでの定番曲も多いのでエドの代表アルバムといってもよいが、その中でも白眉の出来はやはり「The Water is Wide」だろう。

この曲のルーツははっきりしたことはわかっていないが、17世紀ごろにイングランドもしくはスコットランドで歌われていたメロディに19世紀ごろにバラッドといわれる口承の物語を歌詞にして載せたものだといわれている。このスタイルは多少形が違っていはいるもののアメリカでも見られ、この曲をもともとアメリカの曲だと思っている人も少なくないという。
アイリッシュ、ブリティッシュのシンガーのみならず、その美しいメロディからインストとしても良く取り上げられ、特にギターソロにアレンジされているものも多い。その中でもエドのアレンジは、いつものように決して奇をてらうことなく、それでいてユニークで聴くものを引き込む力のあるものだといえる。この一曲を聴くためだけにこのアルバムを手に入れる価値は十分ある。
このアルバムではメインにブリードラブのギターを使っているが、実は「The Water is Wide」、「My Creole Belle」および「Isa Lei」のメインギター(この曲はオーバーダブでエドが複数のパートでギターを弾いている)ではSomogyiを使っていると彼はHPでアナウンスしている。


1998年の初来日以来、毎年とまではいかないが幾度となく日本に来ているエド。パートナーのケリーともども大の親日家で、日本の聴衆の前での演奏を本当に楽しんでいる様子がいつも伝わってくる。
アメリカでは毎年12月に行っているクリスマス・コンサートのプログラムでの演奏を去年から日本でも行うようになった。ことしも11月25日に東京の白寿ホールでクリスマス・プログラムでのコンサートが開催される。オリジナル曲をたくさん聴けないのは少々残念ではあるが、思いのいっぱい詰まっているクリスマス曲をエドのつむぎだすすばらしいギターサウンドで堪能できるのはとても楽しみである。

November 14, 2008

●Edward Gerhard: Night Birds

EdGerhard_Night.jpg

Edward Gerhard (g)

ギター製作の第一歩を踏み出すのに、もっとも大切だった出会いは1997年、東京池袋の楽器フェアの会場でのことだった。自らのギターのプロモーションも兼ねて、アメリカからErvin Somogyi氏が来日していたのである。当時、ギター製作の勉強をどうしたらいいかと模索していた私は、すばらしいギターを世に送り出し続けているアーヴィンにアドバイスを求めるべく話しかけたのだった。

このときの内容や、私がどうやってギター製作の道を歩み始めたのは置いておくとして、日本に来る際にアーヴィンが自分のギターの音を聴くサンプルとして持っていたアルバムが2つあった。ひとつはSteve Hancoffの『Steel String Guitar』、そしてもう一枚が本作だった。

アーヴィンのギターの音はマイケル・ヘッジスやアレックス・デグラッシ、ウィリアム・アッカーマンなどのウィンダムヒル系のギタリストの音楽でなじみがあったが、彼のギターの愛用者としてエド・ガーハードの名前は当時は知らなかった。

フィラデルフィア生まれのエドが最初にギターを意識したのは10歳のとき。テレビでクラシック・ギター界の巨匠アンドレス・セゴビアの演奏を見たのがきっかけだった。それまではポップスばかりを聴いていた少年が、ギター一本で繰り広げられる音楽に魅了された瞬間だ。
14歳のとき、ようやく自分のクラシック・ギターを手に入れた彼は当然のようにクラシック・ギターを習うようになる。しかし、しばらくして伝説のブルースマン、ミシシッピ・ジョン・ハートや鬼才ジョン・フェイヒの音楽に触れ、急速のその関心はクラシックからスティール弦ギターの演奏へと移っていく。レコードを聴いてコピーをしたり、友人に習ったりしてギターの技術を磨きながら、コーヒーハウスなどでソロもしくは友人たちと一緒に演奏をするようになっていった。
その後、現在も居を構えているニューハンプシャーへと移り住み、様々な形で演奏を続けながら自らも曲作りをどんどんと進めていく。特に、ジョン・フェイヒから強く影響を受けたと自ら言っているが、変則チューニングによってギターの美しい響きをどう生かすかを良く考えていたという。

本作はそんなエドが1987年、31歳のときにまさしく満を持して発表した初のソロアルバム。ボストン・グローブ紙のレコード評欄で年間のベスト10アルバムに選ばれるという高い評価を得た。リリース直後には、Windham Hillレーベルから新たにリリースされるGuitar Samplerアルバムへ参加しないかという声がかかり、Handing Down(ソロ3作目となる『Luna』にも収録されている)という曲を演奏・収録した。Windham Hillのアルバムを介してエドの名前を知ったというリスナーも数多くいたことだろう。

エドの魅力はなんといってもギターの音の存在感。決してギミックな奏法を用いたり、複雑なことを積極的にやっているわけではない。一音一音に、自分の持っているものすべてを凝縮して音楽を紡ぎだす、そんな彼の姿勢がひしひしと伝わってくる。弦をはじいてギターが音を発した瞬間に音楽になる、彼の演奏を聴くたびにいつも思うことである。

一部の楽曲ではGuildの12弦ギターを重ねているが、メインで使っているのはErvin SomogyiのDreadnoughtモデル。現在は座って演奏するのに適するようにボディのラインを一般的なドレッドノートタイプから変更したModified-Dというモデルが主流であるが、80-90年代初頭くらいまではドレッドノートモデルもかなり製作していて、エドは直接アーヴィンと相談しながらギターの仕様を決めていったという。
90年代後半になるとエドはBreedloveのエンドースメントを受け、ライブなどではこのギターの出番がなくなってしまったが、「今でも一番好きで大切なギターのひとつだよ」といい、アルバムでもここぞというときには登場している。

1998年3月に初来日をしたエド。そのときは中川イサト、小松原俊、プレストン・リードそしてエドの4人によるツアーだった。この年の5月以降にアメリカにわたり、アーヴィンの元でギター製作の勉強をするつもりだった私は、もちろんこのライブに足を運び、エドといろいろ話をすることが出来た。このときのことも含めてエドとのエピソードなどについては、次に紹介するアルバムで触れることにしたい。

June 01, 2008

●Cannonball Adderley: Somethin' Else

CannonballAdderley_some.jpg

Cannonball Adderley (as)
Miles Davis (tp)
Hank Jones (p)
Sam Jones (b)
Art Blakey (ds)

高校の頃に聴いていたフュージョンから自然な流れでジャズへと手を伸ばすようになったのは、大学生活を送っていた京都でのことであった。チック・コリアをはじめとするフュージョンの中心メンバーたちは、マイルス・デイヴィスのグループに籍を置いていたり、エレクトリックへと移行していったマイルスの影響を強く受けていたこともあり、まず聴いたのはやはりマイルスだった。

当時、学生でステレオを持っているのは本当にまれで、私も音楽を聴く道具といえば唯一持っていたのがラジオ。いい音でジャズを聴きたいとなると、行くべきところはジャズ喫茶であった。京都には老舗店を含めたくさんジャズ喫茶があったので環境としては申し分ない。

熊野神社から丸太町通りを東に行ったところにあった「サンタクロース」。広い店内にゆったりと腰掛けられるソファーがある。なんと言っても目玉はアルテックのA7という馬鹿でかいスピーカー。もともとは劇場用に開発された機種なのでリアルな音像が浮き上がるさまはすさまじかった。

中心部の河原町まで行くのであれば、時間を見つけて出かけていたのが「蝶類図鑑」。店の名の通り、壁には額に入った蝶の標本がずらりと並ぶ奇妙なお店。ここのスピーカーはJBLのアポロ。

そして、大学から北に行ったときに寄っていたのは一乗寺の「downhome」。こちらはJBLのパラゴンでジャスを聴かせる珍しいところ。

他にもフリー系のジャズをよくかけていた「SMスポット」(すごいネーミング!)、ビルを地下に降りていくと縦長の狭い部屋に、すべての椅子がスピーカーに向かって並んでいた「The Man Hall」、荒神口の老舗店「しあんくれーる」(高野悦子の『二十歳の原点』にもでてくる)などなど・・・。残念なことにここにあげたすべてのお店はもうないらしい。

とても個人では所有できそうになりオーディオで大音量のジャズを聴くという贅沢な時間。ジャズメンが本当に目の前で演奏しているかのようなリアルな音像を経験したことが、オーディオに関する原体験といってもよいかもしれない。

閑話休題。
このアルバムはキャノンボール・アダレイがリーダーとしてクレジットされているが、当時はレコード会社との契約でマイルスをリーダーとしたアルバムを製作できなかったBlueNoteレーベルの苦肉の策。

キャノンボールは後にマイルスのスーパー・セクステットのメンバーとして『Kind of Blue』をはじめとする何枚かのすばらしいアルバムに参加するわけだが、このアルバムでは少なくともマイルスと対等に「行くぞ」という静かな気迫を彼の音から感じ取れる。

フロリダの高校でバンドの音楽監督をしていた彼は、たまたま休みが取れてニューヨークまで出かけ、有名なジャズスポット「ボヘミア」でオスカー・ペティフォード(当時はチャールス・ミンガスとならぶトップ・ベーシスト)・コンボの演奏を見に行ったのが1955年のこと。サックスプレイヤーのジェローム・リチャードソンが到着していなかったことを幸いに、キャノンボールはオスカーに自分をステージに上げてくれと頼み込んで、しぶしぶ承知をしたオスカーを尻目に、ものすごいテンポで「I'll Remember April」のソロを吹くまくったという。
その評判がニューヨーク中に伝わり、あっという間にSavoyとの契約を果たし、ニューヨークでフルタイムのジャズ・プレイヤーとして活躍を始めるようになる。

キャノンボールはチャーリー・パーカーの影響を強く受けているが、考えてみるとディジー・ガレスピーにあこがれてニューヨークに出て、パーカーのグループに参加したマイルスとは共通項も多かったはずである。このアルバムでも、おそらくレコーディング現場では相当なぶつかり合いもあったことは想像できるが、音楽そのものはそれぞれのメンバーがうまく溶け合い、ひとつの完成形として仕上がっている。「枯葉」のイントロが終わり、マイルスがテーマを吹き始めるその最初の一音はいつ聴いても鳥肌が立つほどだ。

とても知的で、じぶんの音楽についても細かく説明ができたといわれるキャノンボール、そしてとても感覚的だったと思われるマイルス。この二つの個性がぶつかり合うのではなく混じり合っているという点からも、マイルスのリーダー作とは違うよさが、このアルバムにはある。

何よりも、キャノンボールのサックスの音は(当時のプレイヤーには多かった)シリアスでダークなのではなく、人の気持ちをハッピーにする力を持っている。

April 06, 2008

●Egberto Gismonti in Tokyo 2007

2007年8月20日。東京勝どきの第一生命ホールでエグベルト・ジスモンチ(tiはポルトガルでは「ティ」と発音するが、ブラジルでは「チ」となるという話を聞いたので、今回からジスモンティではなくジスモンチと表記することにした)が16年ぶりに来日公演をおこなった。
ずいぶんと時間がたってしまったが、今回は特にCDを紹介するのではなく、このコンサートで感じたことを記してみたい。

前回の来日は1992年。関東ではBlue Note東京での公演だった。『Infancia』をリリースした直後ということもあり、ギター兼キーボード、ベース、チェロを加えたクァルテット編成で、とても完成度の高い素晴らしい演奏をおこなってくれた。

その後、大病を患ったこともあり、特に海外公演は滅多に行わなくなったので、生の演奏を見るにはブラジルに行くしかないのかもと思っていた矢先、突然の来日情報、それもソロコンサートだという。「このチャンスを逃すと二度と見ることができないかもしれない」という切羽詰った思いで、チケットを手配確保した。

会場の第一生命ホールは1,2階をあわせても800席弱のこじんまりとした楕円型のホール。
舞台のやや下手よりにはSteinway&SonsのフルコンサートピアノD-274(だと思う)。AKG C-414を2本,ややオンマイク気味に立てている。ほぼ中央には、ギター演奏に使う椅子と足台。こちらにはAKG C-491が一本。マイクはいずれもショックマウントを使用していた。

会場の規模からいって、ギターは生音なのかPAを使うのかは興味のあるところだったが、マイク録りでPAというスタイルだったわけだ。ただ、客席の両脇と、舞台上手のスピーカーの後ろにビデオカメラがセットされていたので、収録用としても音をきちんと拾う必要があったに違いない。

定刻からわずかに遅れて、会場の照明がおちる。舞台の袖からジスモンチが2本のギターを持って登場すると、会場から割れんばかりの拍手。彼の来日を心待ちしていた観客の気持ちがひしひしと伝わる。もちろん、私もその中の一人だ。

まず手にしたのは10弦のナイロン弦ギター。マイクの位置をちょっと直したかと思うと、いきなり演奏に入る。冒頭からものすごい疾走感。ピアノのポリフォニック的要素をギターで実現するために多弦ギターを使うといっていたが、確かに、左手のタッピング、右手の早いアルペジオやラスゲアードに近い奏法、また、ピッキングハーモニックスも多用していて、その音はまさしく変幻自在で、一本のギターから発せられているとはにわかには信じがたいほどだ。

よく、「ギターは小さなオーケストラ」とたとえられることがある。伴奏もメロディーも一台の楽器でこなし、音域も広いからだと思っていたが、ジスモンチの演奏を聴いていると、まったく違う次元で「ギター=オーケストラ」ということが理解できる。

時折12弦仕様のスティール弦(通常の12弦とは違い8弦ギターを部分的に複弦にしているように見える)に持ち替えながら6曲を演奏。どの曲もファンにはおなじみのメロディながら、アレンジが異なるせいか楽曲の色彩がいつもと違っているように感じる。それが、「現在のジスモンチ」の演奏という感をいっそう強くする。

息をつく間もなく前半が終わり、しばしの休憩。
ロビーに出ると、皆が興奮の色を隠せず、そこかしこで今日の演奏について言葉を交わしている。
そうこうしているうちに後半の始まりを告げる合図があり、あわてて席に戻る。

後半はピアノのセット。ピアノの前に座ったジスモンチは、まったくもったいぶることなくいきなりトップギアに入れての演奏が始まる。ただし、コンテンポラリー色の強いギターと比較すると、ピアノの演奏スタイルはいたって正攻法。クラシックのピアノになじんでいる人にとっては違和感があるのかもしれないが、とてもよく歌うフレーズはきわめて心地のよいもの。
ジスモンチの曲では一、二を争う人気曲「Frevo」と「Karate」をメドレーで弾くなど、予想をしない流れにはビックリしつつも、グイグイと彼の音楽世界に引き込まれていく。身をゆだねることの心地よさ・・・。

アンコールも含めてピアノで8曲の演奏。鳴り止まぬ会場の拍手にこたえ、何度もステージに戻って挨拶をするジスモンチの表情にも満足そうなものが浮かぶ。以前の公演ではプロモーターとの関係から「二度と日本では演奏をしたくない」といったといううわさを耳にしたが、このファンの歓声を受け止めてぜひとも日本公演を続けて欲しいという思いを強くした。

前回のライブはこれまでに見たもののベストと思っていたので、正直なところそれを上回ることはないだろうと思って会場に出かけた。しかし、そんな思いは軽く吹き飛ばされるほどの演奏。このすばらしい音楽を、家人とも共有できたことはこの上ない幸せ・・・。

当日のセットリスト


<追記>
今年の夏に開催予定の『第24回 〈東京の夏〉音楽祭2008』での来日が決まったようである。詳細は音楽祭のオフィシャルHPをごらんいただきたい。

June 27, 2007

●Nick Drake: Five Leaves Left

NickDrake_five.jpg

Nick Drake (vo, g)
Paul Harris (p)
Richard Thompson (g)
Danny Thompson (b)
Rocki Dzidzornu (per)
Clare Lowther (cello)
Tristam Fry (ds, vib)

以前は、洋楽というとほとんどアメリカのものを聴いていたような気がするけれど、最近手を伸ばすのは、圧倒時にブリティッシュものが多い。若い頃にはじっくりと向き合ってこなかったものを、あらためて丹念に聴いていくと、実にしっくりと来る感じのものが多い。

アメリカ、それもウエストコーストの音楽と比較すると、ブリティッシュのものは、マイナー(短調)な曲はもちろんのこと、メジャー(長調)であっても、底抜けに明るい感じは決してなく、どこかに影を落としているような印象が強い。イギリス特有のあのどんよりとした気候と、ついついリンクしているかのような気になってしまう。

ニック・ドレイクはそんなブリティッシュの中にあっても、一段とダークでメランコリックな音楽で知られる。弱冠20歳でニックは、当時凄腕のプロデューサーとして知られていたジョー・ボイド(Fairport ConventionやThe Incredible String Bandのプロデュースで知られる人物)と契約を結び、ファーストアルバムとなる本作をリリースしたのは1969年。彼が21歳のときだった。

バックを支える中心メンバーはPentangleのベーシスト、ダニー・トンプソンとFairport Conventionのギタリスト、リチャード・トンプソン。当時を代表する人気グループのメンバーが新人をサポートするも珍しいことだったようだ。
レコード会社が提案していたストリングス・アレンジャーに首を横に振り、ニックのケンブリッジでの友人ロバート・カービーにアレンジをさせるなど、20歳そこそこの新人らしからぬ逸話も残っている。

一度足を踏み入れてしまうと、抜け出せないほど深くて暗い孤独の闇が、ニックの世界には広がっている。時折差し込むかすかな光も、次の瞬間には「やはり幻だった」と思ってしまいそうな暗闇の中。「自分とは縁のない世界であって欲しい」と思いつつも、このアルバムを聴くと心の中の何かが震えだす。

専門家の間では評価が高かったにもかかわらず、リリースした3枚のオリジナルアルバムは、いずれもセールス的には振るわなかった。そんな状況が、ニックをどんどんと追い詰めていったのだろう。3枚目の『Pink Moon』を発表した後、精神状態が一層不安定になっていく。もともと、音楽制作をしている間はライブ演奏をほとんどしていなかったが、この頃からは音楽制作自体も休止すると口にするようになっていく。ただ、他のアーティストに向けた曲作りだけは続けたかったようである。

そして1976年11月26日。息を引き取っているニックが発見される。まだ26歳だった。前の晩に抗うつ剤を過剰摂取していたのが死因とされた。枕元には母親が好きだったというカミュの詩集。自殺説が強い中、彼の家族はあくまでも誤って過剰摂取をしたことによる事故死だと主張していたという。
彼の心の中は、闇に閉ざされたままだが、残した素晴らしい音楽は、人々の心を揺さぶり続けるだろう。