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May 31, 2006

●Back Street Crawler: Second Street

BackStreetCrawler_2nd.jpg

Paul Kossoff (g)
John ‘Rabbit’ Bundrik (key, vo)
Tony Braunagel (ds, vo)
Terry Wislon (b, g)
Terry Wilson Slesser (vo)

 ブリティッシュ・ロックを代表するバンドといえば、レッド・ツェッペリンやザ・フーなど、枚挙に暇が無いが、派手さにはかけるものの、どうしても気になっていたのがフリーだった。ヴォーカルのポール・ロジャース(最近ではクィーンのヴォーカルとして脚光を浴びていたが)を中心としたこのグループは、シンプルなスタイルながら、ズンズンと心に響いてくる演奏をしていた。
 フリーのメンバーでひときわ輝いていたのが、ギターのポール・コゾフ。ギブソンのレスポールを使い、ひたすら泣きまくるフレーズには、単なる哀愁を越えて、鬼気迫るものすら感じさせられた。コゾフ独特の深いビブラートは、ちょっと聞いただけでも彼だとわかるトレードマークようなものだ。
 「All Right Now」が大ヒットすると、フリーは一気にトップ・グループへと駆け登っていく。その一方、メンバー間の軋轢がだんだんと大きくなり、ついにはバンドを解散、それぞれが別のグループを編成して活動を開始する。しかし、いずれもあまりパッとした成果を挙げられなかったこともあり、わずか一年余りでオリジナルメンバー4人でフリーを再結成することになる。

 以前から、コカイン依存が強かったポール・コゾフは、再結成後、さらにドラッグに浸るようになり、だんだんと演奏活動も満足におこなえないようになっていく。この状況に嫌気をさしたベースのアンディ・フレイザーがバンドを脱退。さらに、ツアーでもコゾフはギターを弾けないようなことが続く。結局、ツアー途中に新しいギタリストを加えて演奏を続けて急場をしのいだりするが、バンドとして問題は山積みとなり、再度解散という結末を迎えてしまう。

 フリーの2度目の解散後、奇跡的に状態が回復したコゾフは新たなメンバーとともにソロアルバムをリリースする。このアルバムがなかなかの好評だったことに気をよくしたコゾフは、『バック・ストリート・クローラー』というアルバムのタイトルをそのままバンド名として、自身のバンドを正式に結成して演奏活動をしていくわけである。
 しかし、コゾフのドラッグ依存症はひどくなる一方で、バンドとしてわずか2枚のアルバムをリリースした後、移動中の飛行機内で、ドラッグ多用が原因となる心臓発作のため、わずか25歳の若さでこの世を去ってしまう。

 このアルバムは、バック・ストリート・クローラー名義の2枚目。コゾフが死んだ直後のリリースだったためか、邦題は『2番街の悲劇』というものだった。ジャケット裏に小さく、「KOSS(コゾフの愛称)に捧ぐ」とあるのが痛ましい。1枚目に比べると、コゾフのギターは少し控えめになっているが、オリジナル期のフリーの音楽性をストレートに受け継いでいる本作は、佳作といってよい出来だ。
 クレジットを詳細に見ると、ポール・コゾフ(リードギター)となっているのに気付く。つまり、リード以外はベーシストでもあるテリー・ウィルソンがギターを弾いているのである。おそらく、すべてのギターパートを弾くことができるほどには、コゾフのコンディションはよくなかったのであろう。1枚目では、ギターを弾きまくっていたのとは好対照だ。

 改めて、じっくりと聴きなおしてみると、アコースティック・ギターの使い方がうまいのに感心する。ツェッペリンなどにも感じるのだが、ブリティッシュのトラッド・フォークの演奏スタイルが刷り込まれているがごとく、ダークでウェットなブリティッシュ独特の雰囲気のアコースティック・ギターがなんとも言えず良い。同じロックでも、バーズなどのアメリカン・ウエストコースト・サウンドでは、とても粋なサウンドに仕上がっているが、ブリティッシュ・ロックとなると、やはりどこかにブルースの香りが残る、泥臭さがある。そして、それが魅力でもある。

 ジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズに在籍していたエリック・クラプトンの演奏を聴いて、ロック・ギタリストを目指したというポール・コゾフ。その生涯はあまりにも短く、燃え尽きてしまった。1950年9月生まれのコゾフが、今、生きていれば55歳。でも、彼が上手にバランスを取りながら、器用にギターを弾く姿など、まったく想像できない。
 

May 29, 2006

●Stephen Bishop: Careless

StephenBishop_careless.jpg

Stephen Bishop (vo, g, tb)
Andrew Gold (g)
Eric Clapton (g)
Lee Ritenour (g)
Larry Carlton (g)
Reinie Press (b)
Barlow Jarvis (key, p)
Larry Brown (ds)
Chaka Khan (chorus)
Art Garfunkel (chorus)


 サイモン&ガーファンクルを聴くようになったとき、彼らはすでに解散していてそれぞれのソロアルバムを発表していた。ちょうどアート・ガーファンクルがリリースした『愛への旅立ち』の中の何曲かが、とても印象に残った。その一つを作詞・作曲したのがスティーヴン・ビショップ(ステファン・ビショップ)だった。アートのアルバムに楽曲を取り上げてもらったことが縁で、スティーヴンは自身のアルバム製作にこぎつけ、発表したのが本作である。

 この時代、AOR(Adult Oriented Rock-日本だけの呼び方なので、アメリカに行ってAORといってもまったく通じない)と呼ばれる、都会的でおしゃれな雰囲気のあるポップスがはやり始めていた。時代的には多少の前後はあるものの、ボビー・コールドウェルや、それまでのブルースをルーツにしたハード路線から若干軌道修正をしていたボズ・スキャッグス、クリストファー・クロスやマイケル・フランクスなどが、このブームに乗って脚光を浴びるようになっていた。

 ソングライターとしてのスティーヴンの才は、本作に収録されている作品を、前述のアートのみならず、フィービ・スノウやケニー・ランキン、バーバラ・ストライザンドなどがカバーしていることからもうかがい知ることができる。レコーディングに参加したミュージシャンもそうそうたる面子で、当時、売り出し始めた新人のシンガーソングライターへのサポートとしては、ビックリさせられるほどのものだ。結局、このアルバムからはシングルヒットも出、グラミー賞にノミネートされるなど高い評価を得るようになった。その後、立て続けにアルバムを数枚発表した後、『アニマル・ハウス』、『チャイナ・シンドローム』等をはじめ、映画音楽も手がけるようになり、コンポーザーとしての評判も高めていった。映画そのものにも出演するケースもどんどんと増えていった。
 自身の音楽としては、90年代に1枚、2000年以降にも1枚と、ペースは落としているものの、活動自体は続いている。

 都会的で、独特のウィットを持ちながら、どことなくほろ苦いような感傷を感じさせるスティーヴンの世界。70年代終わりから80年代の初めにかけて自分の過ごした時代と、オーバーラップしてはいろいろな想い出が頭の中に浮かんでくる。

May 25, 2006

●Michael Hedges: Breakfast in the Field

MichaelHedges_breakfast.jpg

Michael Hedges (g)
Michael Manring (b)
George Winston (p)

 ウィンダムヒル・レーベルのギターもの、というと真っ先に出てくると誰もが思うのがマイケル・ヘッジスだろう。確かに、以前取り上げたアレックス・デ・グラッシに比べても、左手でのタッピングなどを初めとする斬新な演奏方法などからも、印象に強く残るプレイヤーだろう。好き嫌いは別にして、フィンガースタイルのインスト演奏をする人は、必ず一度はその演奏を耳にしているはずだし、コンテンポラリーな曲では、マイケルが礎を築いた演奏スタイルを何らかの形で取り入れたものも多い。

 初期の作品からすでに傑作が多いが、今回はファーストアルバムを取り上げてみたい。ここでは、アレックスのときと同じようにErvin Somogyiのギターを半数以上の曲で使用している。Ervinの工房にいたとき、マイケルのことを聞いたことがあったが、残念ながらアレックスの場合とは違って、マイケルはソモギギターを所有してはいなかったそうだ。

 ファーストアルバムを録音するにあたり、いいギターを探していたマイケルは、Windham Hillレーベルの主宰者ウィリアム・アッカーマンに相談したところ、Ervinとすでに面識があった、ウィリアムはすぐさま、彼の工房へと足を運んだ。たまたま、手元にあったギターをErvinは快くマイケルに貸し、そのギターを使ってこの作品の録音が始まったのである。

 70年代の終わりから80年代の初めにかけてのソモギギターは、現在のようなフィンガースタイル向きと限定されるようなものでは必ずしも無かった。しかし、マーティンを初めとする当時主流だった工場製のものと比較すると、鳴りや倍音の響きに大きな特徴があった。

 ギター演奏を始めて間もない段階では、いかに楽器を鳴らすかが大きな問題だ。しかし、どんどんレベルが高くなってくると、単に鳴らすだけではなく、響きを意図したようにコントロールできるかが重要なポイントとなる。鳴りのよい楽器であれば、必要に応じて、伸びている音を止める(ミュートする)というテクニックが不可欠なのだ。この点から考えると、Ervinの楽器は、その鳴りと倍音ゆえ、一般的な楽器よりもきちんとしたミュートのテクニックが無いと、いつまでもだらしなく音が鳴り響いてしまい、曲の進行感やハーモニーにも問題が出てきてしまう。

 マイケルは、実は、この作品以降はErvinの楽器はほとんど使わず、マーティンなどの楽器をメインに使用することになる。ひょっとすると、マイケルのように左手でも弦をはじいて音を出すスタイルでは、自由に音をミュートするのが難しいということが、その背景にはあったのかもしれない。

 1曲目に入っている「Layover」は、以前楽譜にもなっていたことがあり、マイケル好きの人が比較的簡単に挑戦する曲である。1998年に、サンフランシスコからゴールデンゲート・ブリッジを渡ってしばらく行ったサン・ラファエロという街でギターの展示会があった時の事である。Ervinのアシスタントとして私も会場で手伝っていたところ、中国系アメリカ人の男性が、ブースにやってきて試奏させて欲しいといった。彼がおもむろに弾き始めたのが、この「Layover」だった。ほとんどノーミスで完璧に近い演奏に、Ervinともどもビックリしたものだった。途中で、演奏を聴きつけて、少しずつギャラリーが集まるような状態になっていた。

 弾き終わった後、「一度、マイケルが実際にレコーディングで弾いたソモギ・ギターでこの曲を弾いてみたかったんだ」と彼がいったのを聞き、わずかその半年くらい前に交通事故でこの世を去ったマイケルの根強い信奉者がどこにでもいることを実感した。
 集まったギャラリーの中には、サンフランシスコをベースに演奏活動や、ライブの企画で中心的な働きをしているブライアン・ゴアというギタリストがいた。彼は、すぐさまその男性に声をかけた。「オリジナルの曲はないの? あれば、今度やるライブに一緒に演奏しないか。」と。しかし、彼の答えは、「オリジナルの曲はないんだ・・・。ただ、好きな曲をコピーして弾いているだけだよ。」というものだった。

 ブライアンにしてみれば、これだけギターが弾けるなら、自分で作った曲を演奏していてもおかしくは無いと思ったようだ。横で聞いていた私は、なんとなくこの中国系アメリカ人に、日本人にも通ずるようなメンタリティを感じ、共感できるものがあった。
 でも、今なら少し考え方が違う。うまくギターが弾けるようになるのは、自分にとっては楽しいことである。しかし、人の心を動かすのは、表現としての音楽で、演奏テクニックではない、と。
テクニック云々とはまったく別の次元において、オリジナルとしてのマイケルの素晴らしさ、すごさは筆舌に尽くしがたいものがある。

 

May 23, 2006

●Fleetwood Mac: English Rose

FleetwoodMac_english.jpg

Peter Green (g, key, ds)
Mick Fleetwood (ds)
John McVie (b)
Jeremy Spencer (g, vo)
Danny Kirwan (g, vo)

 中学生の頃、土曜の晩は兄とトランプゲームをして過ごすことが多かった。看守と囚人が一晩中やっていたというジン・ラミーというゲームだったのだが、ラジオの「アメリカン・トップ40」という番組を聴きながらというのが常だった。
この番組は、その名の通りアメリカのヒットチャートの曲をどんどんかけるわけで、当時はフリートウッド・マックの『噂』というアルバムからのシングルカット曲などがチャートをにぎわせていた。スティービー・ニックスの甘く、とろけるようなボーカルがなかなか魅力的だったが、甘口のロック・ポップスという印象は否めなかった。

 そんな印象が強かったので、ほとんどフリートウッド・マックを聴くことはなかったのだが、あるとき、サンタナの「ブラック・マジック・ウーマン」のオリジナルは、フリートウッド・マックで、当時在籍していたギタリストのピーター・グリーンが書いた曲だと聞いた。どうしても、スティービーの歌声とこの曲のイメージが結びつかなかったので、いずれちゃんと聞かなきゃと思いながら時間だけがどんどん過ぎていった。

 結局、このアルバムを手にしたのは数年前なので、20ン年越しの出会いとなるのであるが、お目当ての曲のみならず、ブリティッシュのブルース・ロック・スタイルを代表するといってもいいような名演がいっぱいだ。今風の音作りからすると、密度も低く、音圧も高くないのだが、「音楽はこうでなくちゃ」とわくわくさせてくれるものがあるのだ。頭で考えて、どんどん作品として仕上げていくのではなく、演奏の場(レコーディングの場)に漂っていたであろうオーラがそのまま、聴くものにも伝わってくる。

 そもそも、このバンドのルーツをたどれば、、ベーシストのジョン・マクヴィーはオリジナルメンバーだったジョン・メイオールのブルース・ブレイカーズと密接な関係がある。この伝説的なブリティッシュ・ブルース・ロックバンドのギターがエリック・クラプトンからピーター・グリーンへと、そして、ドラマーとしてミック・フリートウッドが加わり、この3人がジョン・メイオールと決別をしてフリートウッド・マックを結成する(ブルース・ブレイカーズのメンバー変遷は複雑で、どの時期に誰が誰と一緒だったのかなどの詳細については私は把握していない)のである。したがって、クリームやヤードバーズ、さらにはジミ・ヘンドリックスなどから音楽的な影響を受けたバンドであっても何ら不思議は無い。
 ドラッグを多用していたピーターは、このアルバムを発表してまもなく、バンドを離れソロ活動をおこなうようになるが、目立った活躍をあげることなく、精神のバランスを崩していくようになってしまい、だんだんと表舞台での音楽活動をおこなえなくなっていく。ほとんど音楽界で、彼の音沙汰を聞くことがなかったが、どうやら最近、再び音楽活動を再開したといううわさも届いている。

 一瞬の輝きをはなったブルース・ロックバンドとしてのフリートウッド・マックの頂点は、本作をおいてほかにはない。強烈なインパクトのジャケット写真にひるむことなく、このアルバムを手にして欲しい。

May 21, 2006

●Pat Metheny: Pat Metheny Group

PatMetheny_PMG.jpg

Pat Metheny (g)
Lyle Mays (p, key, autoharp)
Mark Egan (b)
Dan Gottlieb (ds)

 パット・メセニーを最初に聞いたときのことは、あまり覚えていない。おそらく、このアルバムが発売された頃、日本でもだんだんと注目されていたはずだが、ギター関係の雑誌ではよく取り上げられていた。その中で、一番印象的だったのが、機材に関する話である。当時は、レコーディングの現場などでのみ使われていた、レキシコンのプライムタイムというディレイをステレオで使って、不思議な音の広がりを作るという話である。今でこそ、ギター用のコンパクトタイプではないものをラックに入れてライブに使うことは珍しくは無いが、その頃は、こんなことを考えて、実際にやってしまうとは、「なんてクレイジーなんだ」と思ったものである。

 パットが音楽を志すきっかけとなったのが、13歳のときに見たヴィブラホン奏者ゲイリー・バートンのグループを地元で見たときのことだったという。当時、このグループには若き日のラリー・コリエルが参加しており、おりしもジャズとロックを融合したスタイルのギターを弾きまくっていたのである。その後、フロリダをベースに音楽活動をおこなう中、ジャコ・パストリアスなどともつながりを持つようになっていく。

 ECMからの3作目に当たる本作で、初めて「パット・メセニー・グループ(PMG)」という名称を使うようになる。現在では、ライル・メイズとの共演に限り、PMGとクレジットするということである。ECMを離れた辺りから、グループの編成も変わっていき、ワールド・ミュージック的な要素も取り入れた、グループトータルのサウンドメイキングがより鮮明になっていくのに対し、この時代の作品は、シンプルな編成ながら必要な音が必要なだけあるという印象を受ける。
 ライルはピアノ主体の演奏で、時折、キース・ジャレット風のフレーズが飛び出したりするのも、なんともおかしい。ECMならではのことなのかもしれない。マーク・イーガンはジャコに並ぶフレットレス・ベースの使い手として知られているが、ジャコを意識しつつも、フレージングやハーモニックスの使い方など、独特のスタイルを感じさせる。パットは、空間系のエフェクトを多用しているものの、決して線は細くなく、パワフルな演奏を聞かせてくれる。
 ちなみに、国内盤では1曲目の邦題『思い出のサン・ロレンツォ』がそのままアルバムタイトルになっている。

 最近のパットの演奏は今ひとつ、と思っている人で、よりジャズ色の強いものを好む人にとって、この時代の演奏はしっくり来るはずだ。すべての要素を計算しつくしたような現在のスタイルも素晴らしいが、このアルバムのように少数の実力派メンバーで、思い切り自由に演奏するのも聴いてみたいと思う。

May 19, 2006

●Hermeto Pascoal: Slaves Mass

HermetoPascoal_slaves.jpg

Hermeto Pascoal (p, key, g, ss, fl, vo)
Ron Carter (b)
Alphonso Jonson (b)
Airto Moreira (ds, per, vo)
Chester Thompson (ds)
Raul de Souza (tb, vo)
David Amaro (g)
Hugo Fattoruso (vo)
Laudir de Olivera (vo)

 いつの頃か、ブラジル音楽がとてもしっくりと合うようになって来た。ポルトガル語の柔らかい音感と、比較的抑揚を抑えて淡々と弾くナイロン弦ギターによる音楽は、とても心地よいものだ。同じブラジルでも、非常にスピード感にあふれ、ピンと張り詰めた緊張感を前面に出した音楽もある。以前、紹介したエグベルト・ジスモンティはその筆頭とも言ってよいが、もう一人、忘れてならないのが、このエルメート・パスコアールだ。

 今考えてみると、高校生の頃、東京田園調布の田園コロシアムでおこなわれていた「ライブ・アンダー・ザ・スカイ」というライブイベントは、その後の私の音楽との関わりを大きく左右するものだった。自分の聴いてきた音楽を振り返りながら文章を書いてみると、そのことを強く実感する。

 エルメートは1979年のライブ・アンダー・ザ・スカイに出演していた。ブラジリアン・ナイトと銘うち、ブラジルの歌姫エリス・レジーナとの共演である。当時の私は、チック・コリアやアル・ディ・メオラしか眼中に無く、「ブラジリアン・ナイト?! みんなでサンバ演奏かぁ。」と高をくくっていた。もちろんお金に余裕の無い高校生のこと、さして関心の無いコンサートに足を運ぶことなど無かった。今思うと、本作を発表して間もない時期だったので、脂の乗り切った時期の演奏だったに違いない。
 ライブのパンフレットでみたエルメートの写真は、怪しげな初老の巨体で、「奇才」という形容詞がピッタリの風貌だった。色素欠乏症のため、このとき40歳そこそこにもかかわらず年老いたように見えたのだったということを知ったのは、ずいぶん後になってからだった。

 マルチ・インストゥルメンタル・プレイヤーとして名高いエルメートは、本作でも鍵盤楽器、管楽器そしてギターとマルチぶりを存分に発揮している。あるときはアンサンブル全体がものすごいスピードで疾走し、混沌とした淵へと飛び込みそうになったり、また、ある時はフルートのみの演奏に声やパーカッションによる不思議な効果音がからんできたり、彼の楽曲の展開は、聴くものに息をもつかせぬほどのものだ。かといって、難解なフリーフォームへと突入するのではなく、メロディアスなフレーズも随所にちりばめられている。

最近になって、数年前に何度か来日をしていたことを知った。そのときの演奏も素晴らしいものだったそうだ。今年、70歳を迎えるエルメート。次に日本での演奏があるならば、見逃せないものになることは間違いない。

May 18, 2006

●鈴木 大介: どですかでん

TakemitsuSuzuki_dodes.jpg

鈴木 大介 (g)
渡辺 香津美 (g)
岩佐 和弘 (a-fl)

 大学時代に武満徹に傾倒してたY君が、「真っ先にこれを聴かなきゃ」といって薦めてくれたのは、『ノヴェンバー・ステップス』だった。ニューヨーク・フィルの指揮者だったレーナード・バーンスタインからの依頼されて作曲した交響曲で琵琶と尺八をオーケストラと組み合わせるという、独創的な曲であった。しかし、その曲を聴きながら、どうしても私には東洋的な部分が西洋のオーケストラに馴染んではおらず、強い緊張感が伝わってくるものに感じられ、正直なところあまり入り込んで聴くことができなかった。後になって、武満自身が書いた文章で、東洋の日本人である自分が西洋の音楽をやることに対するディレンマのようなものも吐露しているのを読んだとき、「あのときの感想はあながち見当違いでもなかったのでは・・・。」と思った。

 どうしても難解な現代音楽の代表的な作曲家というイメージが強かった武満だが、実際は、ポピュラー音楽、ジャズを始め、歌謡曲や演歌など大衆音楽にも精通しており、仲間内での集まりなどでは、ビートルズの曲を口ずさむこともあったという。確かに、いろいろと調べてみると、映画音楽もあれば、谷川俊太郎などの詩を載せた曲を石川セリや小室等が歌っているものなどがあり、実に美しいメロディがスッと耳に入ってくる心地よさがある。

 「ギターという楽器には限りない可能性があり、同時に限界もある。だからこそ僕はこの楽器に惹かれるんだ。」といっていた武満。ギターのための曲も数々と残している。本作は武満が「今までに聴いたことがないようなギタリスト」と称した鈴木大介が、あるときはソロ、あるときは異種格闘技ともいうべく渡辺香津美を迎えてのデュオ、またあるときはアルトフルートとの共演という、バラエティに富んだ構成となっている。きれいで印象的なメロディラインに対し、実に複雑に内声を動かしたり、複雑なハーモニーをのせたりと、武満徹の素晴らしさはポピュラーな楽曲でもあふれ出ている。同時に、演奏者の武満へのリスペクトが痛いほど伝わってもくる。


TakemitsuSuzuki_guitar.jpg

 このアルバムの中で、重要な位置を占める作品が「ギターのための12の歌」である。初演は1977年で荘村清志によるものであった。誰もが耳にした事のあるメロディを、微妙な不協和音を交えたり、フレーズとフレーズの間に「間」をもたせたり、さまざまなギターの音色を使い分けたりと、編曲者としての武満徹のすごさをじっくりと聴くことができる。鈴木大介は『武満徹:ギター作品集成1961-1995』(右ジャケットの作品)でこの作品を初めて録音するが、収録時間の関係で、本来指示されているリピート部分などを省略せざるをえなかったという。そんなこともあり、より完全に近い形でこの作品を録音したいという気持ちから、本作に再び収録されるようになったといういきさつがある。

 若いギタリストの台頭に大いに期待しつつも、武満は生前に鈴木の生演奏を聴くことはかなわなかった。しかし、病床に伏しながらも彼の演奏テープを繰り返し聴いていたという。この作品のギターを聴くと、離れた存在に感じていた武満徹の音楽が、グイグイと身近に引き寄せられる。

May 17, 2006

●Singers Unlimited, The: A Capella

SingersUnlimited_acapella.jpg

Gene Puerling (vo)
Don Shelton (vo)
Len Dresslar (vo)
Bonnie Herman (vo)

 サラリーマン時代、お世話になった先輩が定年退職を迎えたときのことである。60歳の誕生日が退職日となるのであるが、当時の直属の上司から、退職記念パーティの企画を取り仕切るように言われた私は、これまでのパーティとは違った内容を盛り込もうといろいろ考えた。なかなかいいアイディアが出ずに悩む日が続いたが、あるとき、パッと思いついたのがアカペラのコーラスだった。男性4部のコーラスで、ダーク・ダックスやデューク・エイセスのようなものではなく、もっとおしゃれな構成のものだ。
 「やはり、ジャズ・コーラスでしょう」ということで、なんでも理屈から入る私は、さっそくジャズ・コーラスの本を数冊買い込み、コンピューターソフトで和音をチェックしながら4声のパートを考えていった。誕生日ということなので、思いっきりベタな選曲で「Happy Birthday」。これを思いっきりおしゃれにするというのがこのときのテーマだった。
 さすがに経験したことのない世界だったので、なかなか進まない。ジャズ・コーラスグループの演奏も片っ端から聴いていった。もともとよく聴いていたManhattan Transfer(男声2、女声2)や、男性ジャズ・コーラスの新しいスタイルを完成させたというFour Freshmenなどは、アレンジをする上でとても参考になった。

 そんな中、繰り返し聴いたのがこのアルバム。女声が入っているので、直接自分たちのアレンジに取り入れたわけではないが、メロディラインに対する内声の動かし方などは本当に勉強になった。マンハッタン・トランスファーはインストもののオリジナル演奏を、ヴォーカルでフレーズ完コピという独自のスタイルを築いていた。フォー・フレッシュメンはとても端正な和音の積み上げで、もはやジャズ・コーラスのニュー・スタンダードといってもよいほど完成されたものであった。一方、シンガーズ・アンリミテッドは一曲の中でもリズムやコーラス編成の変化が豊かで、飽きさせない。ビートルズナンバーを筆頭に選曲もおしゃれで、複雑な和音を安定して聴かせてくれる本作は、アカペラコーラスを聴く際の導入部としても最適だろう。

 話を元に戻そう。
 何とかコーラス・アレンジを終えると、同じ研究室で音楽経験のある3人の先輩に声をかけ、それぞれ個人練習をしてもらった上で、仕事が終わった後の全体練習を重ねること数週間。何とか形になり、本番当日を迎えた。4人が皆、ブラックスーツに蝶ネクタイといういでたちでコーラスをお披露目し、暖かい拍手をいただくことができた。
 その後も、定年退職パーティーといえば、アカペラコーラスというのが続き、数回の出番があった。私は会社を離れ、コーラスに参加した先輩諸氏もそれぞれ偉くなって所属が変わってしまった今、あのアレンジで、あの歌を歌う人はいないのだろう。

May 16, 2006

●Noa & Gil Dor: Live

Noa_live.jpg

Noa (vo, g, per)
Gil Dor (g)

 イスラエルの歌姫、ノアは本名Achinoam Nini(アヒノーム・ニニ)、1969年テル・アビブ生まれ。生まれてまもなく、家族そろってニューヨークへと移住し、8歳頃から作曲活動を始めたという。その後、ハイスクール在学中に、生まれ故郷のイスラエルに戻り、音楽活動に本腰を入れていく。
 90年代に入り、本作でも競演をしているギタリストのGil Dorと出会ったのが、彼女にとっての大きなターニングポイントとなったようである。Pat Methenyと知り合ったギルはノアを彼に引き合わせ、当時パットが在籍してたGeffen Recordsから『Noa』をリリースするきっかけを作る。このアルバムは、パットと、パット・メセニー・グループ(PMG)の中心メンバーでもあるベーシストのスティーブ・ロドビーがプロデュースを行い、ライル・メイズも参加しており、PMGをバックにノアが歌うといった感じの仕上がりになっている。

 『Noa』は国際マーケットへと登場し、私も東京のCD専門店で"お薦め盤"として紹介されていたので、初めて目にしたわけである。当時は、かなりパット・メセニーに入れ込んでいたため、ノアという歌手よりもPMGメンバーの演奏に注目していたのだが、クリアーながらパワーもあるノアの声は惹きつけてやまないものがあった。

 その後も、お店でノアの名前を見つけるとなるべく手にするようになっていたが、ギタリストと二人での共演盤ということで、期待を膨らませつつ本作を購入した覚えがある。その期待を裏切ることなく、ギルのギターと、時折ギターやパーカッションも演奏するノアのボーカルというシンプルな構成ながら、伸びやかな歌声は魅力がいっぱいだ。突然ひずんだ音のギターで ジミ・ヘンドリックスのフレーズを弾くギルの遊び心にも思わずニヤリとさせられてしまう。ヘブライ語で歌われるオリジナル曲はもちろんのこと、ビートルズのナンバーやマドンナの曲なども、完全に自分のものにして、新しい姿に歌い上げている。

 日本盤が発売された95年以降、しばらくはノアの作品は簡単に入手できたが、残念なことに、本作を国内で入手するのは難しいようである。ちなみに本作は1991年の録音で、『Noa』よりも古い作品である。少し探してみると、ジャケットデザインは違うが同じ内容のアルバムがアメリカの通販サイトで入手できるみたいだ。2005年にはギルと弦楽四重奏の演奏をバックに歌ったコンサートのDVDも出ているようで、いずれチェックしてみたい。

 ノアに関する情報は、なかなか日本に入ってこないが、このアルバムのようなシンプルな編成でのライブをぜひとも見てみたいものだ。

May 11, 2006

●Charlie Mingus: Pithecanthropus Erectus

CharlieMingus_Pithecanthropus.jpg

Charlie Mingus (b)
Jackie McLean (as)
J. R. Monterose (ts)
Mal Waldron (p)
Willie Jones (ds)

 「怒れる黒人」というのが、全盛期のチャーリー・ミンガスのイメージだ。人種差別問題に対し、抗議の声をあげ、社会的なメッセージを含んだ曲を数多く作り、演奏をしてきた。ベーシストという性格もあるかもしれないが、ミンガスが目指したのは、集団即興演奏と呼ばれるグループ表現だった。アルバムのタイトルともなっている「Pithecanthropus Erectus(直立猿人)」では、この実験的な要素が、高いレベルで結実している。"進化"、"優越感"、"衰退"、"滅亡"と題された四部構成のこの曲は、たった5人で演奏しているとは思えぬ重量感にまず圧倒される。フリーフォームでそれぞれが勝手な方向に走り始めるかと思うと、破綻をきたす一歩手前で突然の調和が訪れる。その緊張感と安堵感の繰り返しこそが、ミンガスの強さをイメージ付けるものなのだろう。

 黒人のメッセージを世に発するジャズメンという点では、デューク・エリントンと対比されることも多いが、ミンガスの場合は、強烈な社会風刺と皮肉がこめられたメッセージとなって外に向うことが多かった。そのため、いろいろな面で敵も多かったという。さらに、大きな体から容易にイメージされるように腕っ節も強く、しょっちゅうバンドメンバーとも衝突をしていた。怒りながらピアノのふたをガチャンと閉め、ピアニストが危うく手を傷つけてしまいようになったり、トロンボーンプレイヤーの顔面を殴ったりと、その方面の話題には事欠かなかった。

 そんなミンガスもパーキンソン病を患い、晩年は大きな体を車椅子に沈めてすっかりと弱々しい姿となってしまった。最晩年には、当時のアメリカ大統領ジミー・カーターに声をかけられて、感極まって泣いている姿には、若き日の「怒れる巨人」の面影はまったく感じられなかった。しかし、このアルバムで地の底から響いてくるようなベースの音は、紛れも無いミンガスの力をわれわれに伝えるものだ。

May 09, 2006

●Alex de Grassi: Southern Exposure

AlexdeGrassi_southern.jpg

Alex de Grassi (g)

 スティール弦ギターでのインストゥルメンタル演奏をポピュラーにしたことに貢献したレーベルとしてWindham Hillをあげることに異論を唱える人は少ないだろう。1970年代半ばに、スタンフォード大学のあるパロ・アルトでWilliam Ackermanが立ち上げたレーベルは、ピアノのジョージ・ウィンストンを初めとする、アメリカのフォークの伝統を持ちつつ、ジャズやクラシックの要素を取り入れた良質な音楽を演奏する仲間たちの活動を、世の中に伝えていこうとすることがベースとなっていた。

 アレックス・デ・グラッシは同じベイエリアにある公立校の雄、カリフォルニア大学バークリー校(ちなみにスタンフォードは西海岸を代表する私学)で地理経済学を専攻していたが、卒業を間近に控えた時期、いとこのウィリアム・アッカーマンが立ち上げたウインダムヒル・レーベルからギター演奏による作品『Turning: Turning Back』をリリース。この作品が好評だったこともあり、彼はギタリストとして一本立ちしていくことになる。

 アメリカを代表するギター製作家、Ervin Somogyi(日本ではアーヴィン・ソモギと呼ばれているが、英語ではソモジという音の方が近い。但し、Ervinによれば、彼の母国であるハンガリーではショモジと発音するので、どちらにせよもともとの発音とは違うということだ)は、70年代後半からギター製作に本格的に打ち込み始めるが、スティール弦の個人製作家というのは、それまでに前例がほとんどなく、苦戦を強いられていた。
 そんな折、同じベイエリアでの新興音楽勢力ともいえるウィンダムヒル・レーベルが立ち上がり、ウィリアム・アッカーマンがアーヴィンのギターを使い始めるようになる。ウィンダムヒルのギタリストたちは、ウィリアムから「今までに無い、素晴らしい音のギターがある」と、アーヴィンのギターを紹介され、次々とレコーディングに使うようになっていった。

 アーヴィンにとっては、早い段階で、自分のギターを愛用してくれたアレックス・デ・グラッシとダニエル・ヘクト(彼は『Willow』というアルバム一枚だけを同レーベルからリリースしている。現在はギター演奏をおこなっておらず、作家として活動しているらしい)は、特に思い入れがあるようで、工房には80年代前半に二人がおこなったコンサートのポスターを飾っていた。もちろん、二人ともアーヴィンのギターを手にして写真に写っている。

 本作は、アレックスにとっては4枚目のアルバム。初期の作品に比べると、演奏スタイルも熟成されてきている。楽曲の構成はクラシックの雰囲気もあり、ヨーロッパ的な香りがするのも面白い。空間系のエフェクト(おそらくコーラスかハーモナイザーの類と思うが詳細は不明)を効果的に使っているので、音のバリエーションも楽しめる。ただ、ギターを作る側から言えば、生音の素晴らしいアーヴィンの楽器を使っているだけに、加工をしない音をもっと聞かせて欲しかったのは正直な気持ちだ。

 AlexdeGrassi_retrospective.jpg 残念なことに、本作は現在入手困難になっているようである。手に入りやすいものとしては、Windham Hillレーベルでのベストアルバム『A Windham Hill Retrospective』を変わりにあげておく。『Southern Exposure』を含む過去4作とウィンダムヒル・アーティストのライブ盤からの選曲で、アレックスのウィンダムヒルでの演奏を知るには最適であろう。
 いい作品が、コンスタントに入手できるような状況をぜひとも作ってもらいたいものだ。

 アレックスは現在もベイエリアをベースとして演奏活動をおこなっている。新しい作品もなかなか評判がいいようなので、機会を見て聴かなければと思っている。

May 08, 2006

●Paul Simon: Song Book

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Paul Simon (g, vo)

 サイモン&ガーファンクルを聴くようになったのは中学生の頃で、すでに解散してから数年たち、二人それぞれがソロアルバムを発表していた。解散に至る経緯なども含め、音楽界としても振り返る余裕ができたこともあってか、ラジオでかぜ耕士(当時、ニッポン放送の深夜番組「たむたむたいむ」の人気パーソナリティーだった)がナレーションで「サイモン&ガーファンクル・ストーリー」という連載番組(半年以上続いたように記憶している)を放送していた。その時代ごとの二人にまつわるエピソードを交えながら、当時の曲をかけるという番組だった。ポール・サイモンとアート・ガーファンクル、そしてプロデューサーのロイ・ハリーの間のずれがどのように生じていったのかなどについても触れていた。

 マイク・ニコルズ監督の『卒業』の音楽を全編担当することで、二人の評価はゆるぎないものになっていったが、その一方で、アートが一時的に音楽から離れ、役者としてマイクがメガホンを取った『キャッチ22』や『愛の狩人』へと出演することになったのは、なんとも皮肉にようにも思える。当時は、マイクやアートが映画へ移行しなければ、この素晴らしいデュオが解散には至らなかったのに、とずいぶんとアートに対して悪い印象を持ったものだ。

 さて、本作はS&G名義で活動を始めて間もない頃、ポールが一人で全編弾き語りでおこなった録音。ファーストアルバムが不振だったことに失望したポールはしばらくイギリスに渡り、しばらく書き溜めていた曲を一人でレコーディングする。ギター一本にボーカルというシンプルな構成は、取り上げている楽曲の影響も大きいが、ファーストアルバム『水曜の朝、午前3時』と通ずるものを強く感じさせる。美しいメロディにのせて淡々と、また、あるときは激しい口調の歌声は、強いメッセージ性を含むものである。

 ポールとアートの二人とはまったく別に、ファーストアルバムに収録されていた「サウンド・オヴ・サイレンス」にエレクトリック・ギターやドラムスをかぶせて編曲し、シングルリリースされたものが大ヒットとなったことはよく知られていることだが、失意の底にありながらポールが製作したアルバムとはまったく違うサウンド、当時流行しつつあったフォーク・ロックスタイルの編曲が世に受けたということは、なんとも皮肉である。

 本作は、長らくCD化されなかったが、2004年にようやくリリースされた。オリジナルのLPに対して、CDのジャケットでは写真が裏焼きになっているように使われている。ひょっとすると、オリジナルのものが裏焼きで使われていたのかもしれないが、アルバムタイトルの字体なども変更され、昔のカシッとしたデザインとはずいぶんと趣きが変わった。いずれにせよ、貴重な音源を再びCDで聴くことができるのは嬉しいことだ。

May 07, 2006

●John Abercrombie: Arcade

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John Abercrombie (g, e-mandolin)
Richie Beirach (p)
George Mraz (b)
Peter Donald (ds)

 長いことCD化を待ち望んでいたものが、ある時、突然リリースされることがある。そのため、時折CD通販サイトをチェックしなければと思っている。本作もそんなものの一つだ。ここでも何回か言及したECMレーベルの作品だが、考えてみると、初めて買ったECMのレコードがこれだった。

 ジョン・アバークロンビーは派手さは無いものの、玄人好みのギタリストといえるだろう。このアルバムはLPで発売されたときの邦題が『マジカル・フィンガー』。「驚異のテクニック」といったようなキャッチコピーがついていたように記憶している。ここで、再三書いているが、この類のコピーにはめっぽう弱かった高校生時代の私は、なけなしの小遣いをはたいて手に入れたのであった。確かにすごいテクニックではあった。ただ、あまりにも流暢に音が流れていくので、弾きまくるという印象はまったく感じなかった。それよりも、ディレイを多用するジョンのギターの音や、リッチー・バイラークのピアノ、そして時折アルコ奏法を交えたジョージ・ムラーツのベースは非常に透明感があり、ユニットのまとまりの素晴らしさが目立った。ドラムスのピーター・ドナルドはあまりよく知らないが、ルー・タバキンなどと演奏をしていたようである。ここでは、他の3人が作り出す音空間に溶け込むようなシンバル・ワークがとてもよい。

 不幸なことに、ECMのマンフレート・アイヒャーと、当時はこのレーベルで中心的な活動をしていたリッチーは、このアルバムをきっかけに、音楽面での確執が表面化し、しばらくして袂を分かつことになってしまう。アイヒャーにとって、この問題は思いのほか大きかったようで、ジョン名義でリッチーが参加した3枚のLPはECMのリストから抹消されてしまうという結末を迎える。その経緯を考えると、本作がCDとなって再び日の目を見るようになったことは、本当の驚くべきことであろう。

 ジョンの一聴するとつかみどころが無く、浮遊感の漂うギターと、ビル・エバンスの流れを汲み、リリカルでありながら、時折きらめくようなフレーズが輝いているリッチーのピアノが、素晴らしくマッチしている。ジャンは、この後にもマーク・ジョンソン、ピーター・アースキンとのレギュラートリオでも素晴らしい演奏を残しているが、音楽的な完成度の高さでは、本作が一押しだ。

May 06, 2006

●Martin Simpson: Leaves of Life

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Martin Simpson (g)
Eric Aceto (violect Mandolect)

 Ervinの工房で修行をしていたとき、何人かに素晴らしいギタリストと出会うチャンスがあった。マーティン・シンプソンもその中の一人。1999年当時は、カリフォルニアからニューオリンズへと移り住んでいたが、ベイエリア(サンフランシスコ近辺)でイベントがあると、Ervinのところへいつも顔を出してた。英語特有の表現ではあるが、Ervinはマーティンのことをとてもリスペクトしていて、「彼と同じ空気を吸っていると思うだけで、光栄だ」」といつも言っていたことを思い出す。

 イングランド生まれのマーティンは、ケルト音楽など、伝統的なものをベースにしつつも、アメリカのブルースやカントリーの要素も加えた独特のスタイルを作り上げた。最初に手にしたのはバンジョーで、時折、弦をはじくようにしてパーカッシブな効果を狙ったギターの弾き方も、クローハンマースタイルというバンジョーの奏法を元にしたものだという。ちょっとダミ声っぽいボーカルも魅力的だが、やはりすごいのはギター演奏そのもの。情感のこもったスローな曲から、クローハンマーを駆使したドライブ感あふれるものまで、とても多彩でまったく飽きさせることが無い。本作は、Shanachieレーベルから出した最初のアルバムで、ギターの魅力を前面に押し出したもの。ちなみにエリックの演奏しているViolectとMandolectとは、彼のオリジナルデザインの楽器で、エレクトリック化をした、バイオリンとマンドリン。いずれも、エリック自身が製作したものだという。

 現在は、ニューオリンズを離れ、再びイングランドを拠点に活動をおこなっているマーティン。奥さんのジェシカとのおしどり夫婦ぶりも、とても素敵で、一緒に演奏しているアルバムもいい。彼の演奏を聴くと、「天賦の才」の意味がしっかりと伝わってくる。

May 04, 2006

●Joyce: Feminina/Agua e Luz

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Joyce (vo. g)


 音楽をジャンル分けすることに意味はほとんど無いのだが、どこの音楽が一番好きかといわれると、「ブラジル」と答えたくなる。知らないうちに耳に飛び込んできたボサノバなどを別にすれば、一番最初にブラジル出身プレイヤーの音楽として意識しながら聞いたのは、エウミール・デオダートの『ツラトゥストラはかく語りき』だった。おなじみのメロディを、とてもおしゃれなコードワークとリズムでまったく違うものに仕上がっていてとってもかっこよかったことを覚えている。その後、ボサノバを含めたギターものにもだんだんと自分から手を伸ばしていき、素晴らしいプレイヤーをどんどんと知るようになる。

 ジョイスは、60年代終わり頃から活動を続けているブラジルの女性アーティストの中心人物の一人。本作は80年発表の『フェミニーナ』と81年発表の『水と光』のLP2枚を、1枚のCDに収録したもので、初期の代表的な作品。残念ながらパーソネル(参加ミュージシャン)はわからなかった。時にしっとりと、時に縦横無尽に駆け回るようなジョイスの歌とスキャットは、今聴いてもまったく色あせていない。
ジョイスの声は、透明感がありながら「ざらついた」テクスチャーを感じる。心地よくすっと入ってきて、すっと出て行くのではなく、ざらついた部分が自分の中に引っかかっていくような感じなのである。

 90年代に入ると、ロンドンでのクラブシーンでジョイスの人気が再び高まり、日本のクラブなどでもさかんにこのアルバムの曲がかけられるようになった。ちょうどこの頃、来日したジョイスを見にブルーノート東京に出かけたことがあったが、観客には若い20代前半の人が目立っていたのにはビックリした。このときは、ギターにトニーニョ・オルタをひきつれてという豪華な布陣で、ステージ中央にスッと立ったジョイスはとてもかっこよかった。定番のナンバー「Samba de Gago」では、観客と一体となったスキャットで雰囲気は最高潮。日ごろクラブシーンにはほとんど関心を持っていないが、どんな形にせよ、いい音楽を知るきっかけとなるのであれば、それもまた良しという思いを強くした。

May 02, 2006

●John Williams: From The Jungles of Paraguay

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John Williams (g)

 クラシック・ギターを現在のような形まで引き上げた最大の功労者は、アンドレス・セゴビアである。それまでは、ギターは小さい空間でのみ演奏される楽器という認識しかなかったが、ギター製作者、作曲家たちに積極的に働きかけ、コンサートホールでの演奏に耐えうる楽器と、ギターの特性を生かしたレパートリーの拡大に、尽力したその功績は計り知れないものがある。同時に、後進の教育にも非常に熱心で、彼の元から数々の素晴らしいギタリストが誕生した。
 ジョン・ウィリアムズはオーストラリア生まれ。ジャズ・ギタリストの父親の影響もあり、幼い頃からギターを弾き始める。その後、イギリスのロンドンへ移り住み、14歳の頃にロンドンのコンウェイ・ホールで演奏しているのをセゴビアに認められ、ロンドンの王立音楽院で学ぶ一方、セゴビアの元でも研鑽を積んでいった。ジョンはセゴビアの教えを受け、もっとも成功した一人として知られることになるが、世界各地を演奏してまわるにつれ、クラシックの範疇にとどまらず、さまざまなジャンルの音楽エッセンスを吸収していく。厳格に自分の教えを受け継いでいくことをよしとしていたセゴビアとの間に、何らかの考え方の相違が生まれてきたとしてもおかしくは無い。事実、ジョンは、自分の技術の中で、師事してきたセゴビアをはじめとする指導者たちから学んだものの割合は、決して大きいものではないともいっている。

 クラシック・ギターへの計り知れない貢献をした一方で、セゴビアによって、長らく日の目を見ることができなかった面もある。本作は、パラグアイの作曲家アウグスティン・バリオスの作品集で、最近では『大聖堂』などは、クラシックのレパートリーとしてもポピュラーになってきている。しかし、セゴビアはバリオスの曲を「演奏するに足らぬつまらぬもの。彼の曲を演奏するくらいなら、他に弾くべき曲は山ほどある」と酷評していた。セゴビアがクラシック・ギター界の中心で力を振るっていた時代には、バリオスの曲を演奏するプレイヤーは数えるほどだったという。
 リリカルで、哀愁を帯びたバリオスのメロディ・ラインは、ナイロン弦の音色と相まって際立った美しさを見せる。ジョンの非常にシャープで輪郭のたった演奏は、バリオスの曲を演奏している録音の中でも、トップクラスの仕上がりだと思う。彼が愛用しているのは、オーストラリアのグレッグ・スモールマンという製作家のギター。通常のクラシック・ギターと比べて、表面版の補強の仕方がまったく異なるスモールマン・ギターは音の立ち上がり方が独特で、ジョンの演奏スタイルを特徴付ける要素として、今や欠かせぬものとなっている。

 ジョンは80年代には、ポピュラー音楽演奏にもかなり力を入れ、自らSKYというグループを結成する。こちらでは、ピックアップを内蔵したオヴェイションのナイロン弦モデルを使い、バンド編成での演奏をおこなっていた。この頃、クラシック・ギターの演奏をほとんど耳にしていなかった私だが、「クラシック・ギター界の貴公子がフュージョン音楽を演奏する!」といったようなキャッチコピーで宣伝していたことは覚えている。ただ、クラシックのファンからは、この時代については「非常に無駄な回り道をした」という厳しい声が多い。

 ジョンの演奏するナイロン弦ギターの音をポピュラーなものにしたのは、マイケル・チミノ監督の『ディアハンター』のメインテーマとして使われた、「カヴァティーナ」の演奏だろう。ナイロン弦ギターを手に入れたら、この曲を練習して弾けるようになりたいと思いながら、ずいぶんと長いことたってしまったが・・・。

May 01, 2006

●ゲルニカ: 改造への躍動

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戸川 純
上野 耕路
太田 螢一

 学生時代、一人暮らしをしているアパートの部屋に、あるとき友人のK君が一枚のレコードを持ってやってきた。レトロ調のジャケットデザインに「ゲルニカ」という聞いたことの無いユニット名。部屋にはレコードプレイヤーが無かったので、音楽好きの友人の部屋に出かけ、さっそく針を落としてみた。耳に飛び込んできたのは、昭和初期~戦後復興辺りの時期をイメージして作りこんだ音楽。他に類を見ないユニークさ。
 このときまで、私は戸川純のことをほとんど知らなかった。しばらくして、テレビドラマなどに出演している姿を見て、エキセントリックな雰囲気も含め、強烈な存在感が印象に残った。ただ、その演技の姿と、ゲルニカの歌い手としての姿はずいぶん印象が違う。演技では時として陰鬱な印象が強すぎる感もあったが、歌い手となると、時として朗々と、時として可憐なに、変幻自在の声色には、好き嫌いを越えてひきつけられずに入られないものを感じてしまった。
 K君とは学籍番号が近かったので、試験のたびに机を並べたが、あるとき、試験休みに旅行でも行こうかという話になった。お互いお金の無い学生だったこともあるが、彼が琵琶湖の湖岸近くの町の出身で昔から一度やってみたかったといっていた「琵琶湖徒歩1周」を敢行することになった。バイトの帰りに、大学近くの私の部屋にやってきたK君と、寝袋を背負って京都の街中を出発して、北上し、大原を抜けて「途中越え」というルートで琵琶湖の湖岸まで出る。そのまま、野宿をしながら3日かけて約210kmを歩いた。このアルバムをずっと聞いていたこともあり、二人で、「夢の山獄地帯」や「復興の唄」等を歌いながらひたすら歩く姿は、他の人からは異様に映ったかもしれない。無事に歩き終えて部屋に戻ると、足が腿の付け根から落ちてしまうのではと思うほど疲れきっていた。一息ついてテレビをつけると、当時マラソンの第一人者だった瀬古敏彦選手の様子を紹介しており、「瀬古選手は毎日70km走りこんでいます」と聞いて呆然。さらにどっと疲れが出たのはいうまでも無い。

 このアルバムのプロデュースには細野晴臣が参加。とても明確なコンセプトで作り上げている。ゲルニカとしては、この後に『新世紀への運河』『電離層からの眼差し』を発表し、いずれもユニークで質の高い音楽を聞かせてくれた。ただ、斬新さと完成度の高さでは、本作が一番ではないかと思う。戸川純も、『玉姫様』など個人名義での演奏や、ヤプーズというユニットでの演奏も面白いが、ゲルニカでは、非常に限定されたターゲットにすべてを集中させているのが痛快だ。